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庵/雛
年齢:
36
HP:
性別:
男性
誕生日:
1988/03/25
職業:
週刊イオリビナ!!編集長、兼ライター、兼大学生。
趣味:
本、本、本、アニメ、ゲーム、本、本、本。
自己紹介:
お気楽人間日本代表。
好きなキャラはタルト星人。
好きな音楽はロック。
好きな本は小説本で。
嫌いな食べ物はトマト。
只今トマト撲滅キャンペーン実施中。

九州の辺境大学の学生。
いまは休学(半ばサボって)して首都で勉強中。
しかし実態はただのニート。
なるべく時間を有効につかおうとするもゲームに走る。
MGO、FIFA08プレイ中。

時間は腐るほどあるので、HPいじっていきます。




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これを新聞原稿のネタにするつもりで書いてます。

ブログに続く、言葉の考察。
少し前に、「なぜ人はブログを書くのか」ということについて考察しました。
今回はそれにかかわるかどうかが微妙ですが、言葉についての考察を行ってみようかと思います。



今現在、私たちの社会には多くの言葉があふれかえっています。
電車に乗っても、町を歩いていても、家に居ても、一度は必ず言葉を見る機会がある。
逆に、言葉を見ようとしないように普段通りの生活を過ごすのは困難です。
情報伝達の役割を持つ言葉は、人々にとって電化製品以上に必要不可欠なものだと言えるでしょう。
しかし、言葉が増えていく以上、私たちの受け取る情報量は多くなり続けます。
そして私たちはそのすべての言葉を自分の頭で処理していくことは困難になり、そこに必要な言葉と不必要な言葉というものが生まれてくることになります。



では必要な言葉と、不必要な言葉とは何なのか。

「必要な言葉」とは生きていく上では必要になってくる言葉のことを指します。
それらはつまり、新聞や、論文、手紙、メールなど実用的なものに部類します。
対して「不必要な言葉」とは生きていく上で必ずしも読む必要のない言葉のことをさし、それはつまり小説や、詩、歌などの芸術的なものだと言えます。
この二つの分類が絶対とは言いません。
小説を書いたりしている自分には小説というものが意味のないものだとはとても思えませんから。
しかし、その芸術や、心に効く言葉ということを省いて、生きるために必要なもの、を考えてしまえばそれらは不必要な言葉に分類されることになるでしょう。



なぜこの分類が出来上がってしまったのか。

そもそも、言葉というのは文字にして自分の意志や情報を伝え合うためものになります。
つまり、言葉=意思疎通や情報収集をするためのツールであり、それこそが言葉の本質であると考えることができます。
そうすると、「必要な言葉」達は言葉の本質のみを選りすぐったものということができます。
そうなれば「不必要な言葉」はその陰に隠れる、本質以外の使い方をした言葉ということができます。
私たちの社会には今この分類が顕著に表れ始めています。
それが「読書離れ」や「活字離れ」といったものなのかもしれません。
本を読むことがない人が悪いということではありませんが、その傾向こそが言葉に「必要」「不必要」のレッテルをつけてしまった一因とも考えることができます。



「必要な言葉」の多くはその形式が作られていたり、情報が乗せられていたりします。
そのため難解な読み方ではなく情報をただ端的に伝える点では読みやすく、例え読みたくない、と思っていてもそれが必要な情報ならば相手は受け取ります。
また、言葉での意思疎通を行うための手紙やメールは、例え他の人にとって意味のない言葉の羅列や、書き方であっても、その意志疎通を行う人間の間には重要な意味を持ち、意思を持っていることになります。
だからこそ、必要な言葉はその媒体が変われども、なくなることはまずあり得ません。



対して「不必要な言葉」は書き手の想いや、感情で出来上がっているものです。
そこには情報が多少なりともあれど、それを読む際には読み手の好き嫌いが関わってくることになります。
そこが、「不必要」を生んでしまう原因ではないかと、庵は考えます。
情報を伝えるために発明された言葉は、やがてその使用法を工夫され、物語や、詩などの芸術性、人の心に訴えかける表現性を手に入れることができました。
しかしながら、そこに書かれていることが必ずしも必要であるものではないため、それを嫌ってしまう人間も出てきてしまったのです。
小説を読むことが苦手な人は、そもそもそう言った言葉を欲してはいないのかもしれません。
言葉で感情を表すことは手紙に必要であっても、それが書かれた物語を読むことが、果たして生きていくために必ず必要か。
「要る!」と断言できないのが実情だと思います。



「自分にとってはいらないから読まない」
「自分にとっては書く必要がないから書かない」

必要最低限を突き詰めれば、それは情報の言葉になっていくことになります。
「活字離れ」は自分にとって必要のない、価値のない言葉を拒否したからこその結果でしょう。



では、次に、「必要な言葉」が必ずしも「必要であるのか」

結論から言えば、「必要ではない」ということになります。
新聞を読む人が全人類かと言えばそうではなく、手紙を書く人が、メールを書く人が全人類であるということはできません。
今回は手っ取り早い結論で「全人類が必要とする」というおおざっぱすぎる考えを用いていますが、少し考えれば新聞やメール、論文にも不必要な候補はあるのです。
それはなぜ起きるのか?
答えは「興味」の一言に尽きます。
必要、不必要で分けた分類の先には、興味がわくか、わかないかが出現することになるのです。
たとえば。
新聞の間中に含まれている広告。
読む人が果たしてどれほどいるのでしょうか?
たとえば。
論文。
実際必要とするのは少数派の人間です。
分かりやすく、二つを挙げましたが、論文はあまりいい例ではありませんでしたね。
ごめんなさい。
ですが広告。
広告は商品や企業の情報を詰め込んだ言葉の集まりです。
しかし、それを果たしてどれだけの人間が読むのだろうか。
分類としては人にとって必要であろう情報が入れられている言葉であるのにもかかわらず、そこに興味が関連してくることで「必要の中の不必要」が発生、分類されてしまいます。



これは「不必要な言葉」にも同様のことが言えます。
不必要な言葉でも、そこに興味が沸けばその人にとっての「不必要の中の必要」に分類されるのです。
それはたとえば本好きや、詩人、俳人などが当てはまります。
言葉も「物」の一つであるとすれば、この分類が生まれることは不思議ではありません。
むしろ当然、必然ともいえるでしょう。



では最後に、この分類から起こる「必要の中の不必要」や「不必要の中の不必要」に分類される言葉達はどうすればいいのか。

広告は、流し眼で読まれることが大半です。
その中には多くの商品の情報が詰め込まれていることが多いのです。
ですが読まれない。
どうすりゃいいのか。
答えは一つ。
それは「聞く言葉」を作ることです。
そして「効く言葉」であることです。
人にとって「興味がある言葉」ではなく「興味を持つ言葉」であることです。

「聞く言葉」とは、耳で聞くようにわかりやすい、情報を受け取る側の人間のための言葉です。
読む人が何を求めているかを考え、読む人のために情報を詰め込み、読みやすく書かれた言葉です。
「効く言葉」は読み手に「面白い」や「興味」を持たせる言葉であることです。
人に「お?」と思わせ、「なんだこれ?」と思わせ、「ふんふん」と読ませてしまう言葉です。
これを書くことは一筋縄ではいかない、とんでもなく難題であります。
一人格の脳みそから、様々な人の興味や関心の方向を考えて書かなければなりません。
しかし、これが死にかけの言葉を救う一つの方法ではないか。
庵はそう考えます。



今回も読みにくい考察でしたがいかがでしたか?
必要なかったですか、そうですか。
ですが余談ながらもう二言述べると。

ネット上の言葉の大半はこの「不必要な言葉」に当てはまることになります。
ここで考えを述べても意味はない、って自分で墓穴掘ってますが。
正直誰がどこでどう蔵総が私としては知ったこっちゃないんです。
どうでもいい。
それは前回ブログについて考えた時の結論である、「個人の欲求の集合体」からもわかるように、そこに個人個人の趣味趣向が含まれているからにほかなりません。(企業を除く)
そして多くの場合は感情に乗せられた言葉であることがうなずけると思います。
それを不必要か、必要かを判断するの読み手の判断ですが、あふれかえる言葉の多くは吹きこぼれてしまい、中に残った小数しか読まれていないことも現実であると思います。



もう一つは活字離れの時代に突如としてあらわれた「ケータイ小説」です。
これは、これを利用する人々にとっては「必要な言葉」であり、他の人々には「不必要な言葉」であることが良くわかる例でもあるでしょう。
ネットでは文体が酷く、これは小説ではないとの声が大きいようです。
庵も実際読んですごいなと思いましたが、よくよく考えるとあれは「効く言葉」と「聞く言葉」の一種であるのではないのかと思います
たとえば、語りかける口調をそのまま使用することは、読み手にとっての「読みやすい言葉」=「聞く言葉」であり、その単純で突飛な内容、おかしな言葉づかいは同じような年代の女性(または男性読者)に向けたための「効く言葉」であるのではないでしょうか。
携帯という現代においては必須アイテムにも近いものの中で読める、ということも「効く言葉」の要素の一部にもなっていることと思います。
そう考えれば、ケータイ小説も読み手にとっては極上の「言葉」なのかもしれません。

この考えはかの有名な「わたし彼女」のあるレヴューを見ていて思った考えであるので、必ずしも庵個人の特別な考えではないことを追記しておきます。





ふう。
ながながと書いたけど、これが新聞の原稿のアイデアとなるのかならないのか。
まだ時間はあるのですが、庵は時間をどうも下手に使っているので。
これからもたまに考えや記事などのためし書きにこのブログを利用します。
その際にはみなさんにとっての「効く言葉」「聞く言葉」であることを目指して。


ひなぜくう・いおり




参考:わたし彼女がなんであんな文体でかかれているのか、その理由が分かっ
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浸酔言語。

造語です。

Be Addicted by Word.
しばらく英語を使っていないので意味がわからない感じですが、~されるって受け身はこれでいいんだっけ…?

今回は「言葉に溺れる」事について考えてみようかと思います。

いきなりなんだ、と思うでしょうが。
小説とか物語の上で欠かせないのはこの「言葉に溺れる」事だと思うのです。
その物語に入るにあたってまずダイレクトに読者に響くのは登場人物のセリフ。
その後に心情描写や風景描写がセリフを補う形でついてくる、と庵は考えています。
セリフを読むことで読者は主人公の感情をそのまま受け取り、その後の風景描写、心情描写にてその内容にさらに踏み込んでいく、という流れが庵はあると思ってます。
まぁ、それが逆転する可能性もあるんですけれども。
しがないへたれ物書きの戯言と思って読んでください。

まずは後付けの描写から考えてみると。
描写するにあたって欠かせないのはやはり詳細描写と比喩表現でしょうか。
それはたとえば
「潮の香りが吹き抜けていく、海辺のベランダ」
とか
「20cm前にあるハロゲンヒーターのような暑さ」
とか。
比喩はいいのが思いつけなくて、とっさに目の前にあったハロゲンヒーターを見て書きました。
ひどいですね、そうですね。
でも、前者は「海辺のベランダ」だけよりも、今どのような状態のベランダなのかという事がわかりますし。
後者は後者で「20cm前」と「ハロゲンヒーター」で何となくな熱さ話わかりますよね…?
ね?

まあ、その出来はともかく、詳細を示すとそのイメージは浮かびやすいし、比喩を使えば状況の状態を示すことができます。
二つが組み合っている文章ならば、ハロゲンヒーターのような暑さの中に、潮の香りの風が吹いてくる、という感じの状況、風景が作れます。
これだけでも、十分だと思うのですが、これを前提として登場するのがセリフであると庵は考えます。
言いかえれば、セリフ一つで状況を説明できる、みたいなかんじ。
うまい具合にセリフが思い浮かばないのですが、暑い場所に居るならば
「暑い…」
とか書いてしまえば、もうだるくて暑くて最悪みたいな感じも得られるわけです。
それに付随して、詳細と比喩がくっついて場面と状況がイメージできる、と。
そうやって普段私たちは言葉を読んでいくと思うのです。

そしてそれは読んでいる私たちのほかに、物語の登場人物にも言えることだろうと思うのです。
いや、微妙に何か違いますが。
要は言葉からのイメージがあると、その物語は進んでいく、というように。
人物のセリフからのイメージでその人物の行動も結果も変わっていく、という感じ。
話つながってますか?
ついてきてますか?
つまり。

「セリフ、詳細・比喩表現」
 ↓
「読者へのイメージ伝達、読者のイメージ増幅」

が、その読まれている側の物語では
「セリフ」
 ↓
「感情の表現、自身(登場人物の)の行動のイメージ」
 ↓
「物語の結果」

と、動くものがある、という事です。

それがよく表れるのは演説などですかね。
漫画やアニメの中で演説シーンが好まれるのはこの流れがあるからではないかと思うのです。
さらに言えば、戦闘シーンなどで主人公と敵が戦いながら互いにののしり合うの状況があるのもそれから来るものではないかな、と。
そしてそれを行う事でクライマックスのシーンなどには読者は登場人物にのみこまれていく、という現象が起こる。

(逆に制作者側から見れば、このシーンこそみてほしい!という感情があるからこそ、そういった類ののの知り合いやらが入らざるを得ない、むしろ入れたほうがしっくりくる)

同時に、物語の中の人物もその状況をセリフで言う事で自身の行動をイメージし、次の行動へと話を進ませる。
たとえば「勝つ!」という言葉を述べることで、勝利を得る。
みたいな。

こないだ暇だったので見直したガンダム00で説明すると、SFSが正に実践していました。
それが最終話での刹那の一言一句。
状況としては完全な劣勢であったのに、最終的には勝っちゃう。
よくよく考えたら、トランザム後の機体でGNフラッグ(変態)に勝てるわけねぇのに、引き分けになってしまう。
それは言葉に浸って、酔った結果ではないか、と。
「浸酔」していったからではないかな、と思うのです。

もちろん通常はなす言葉がそのままキャラクターの強さに変換される、とは言いません。
また、言葉に溺れたから強くなったんだ、という結論付けもしません。
それだと非現実的ですからね。
前述したことを思い出してください。

要は「言葉に溺れる」事で、物語状況には変化が起こる、という事なのですよ。
「浸酔言語」はその使用によって物語を大きく動かし、さらにはその受けてである読者の感情も大きく動かす可能性がある、という事なのです。
もっとおおざっぱに言えば、言語こそに「浸酔」させる力がある、というか。




今だけ長く考察しておいていいたかったのは、
言葉には力がある。
という事です。

でも久々にあほみたいなこと考えた割にはうまい具合の考えだと思うんだけどなぁ。。。
どうなんだろ。
これもう少し考えてみて、研究に使うのも手かもしれませんね。
言語に興味は全くないですけど。


では、今回はこの辺で。
絵、描かないと。
ニワトリをかもすぞ~。



戦争。

仲間のために戦う。

漫画やアニメ、ゲームで見よく見られる聞こえの良い言い訳です。
何故戦うか、といわれれば利益でもなく、欲求でもなく、命令でもない。
仲間を助けるために。
聞いていて青臭いと感じるのは平和な証拠でしょうか。
それは真実なのかもしれないのに。
そう、今日改めて思いました。

感化されすぎなのかもしれませんが、「ブラックホークダウン」はものすごくリアルでした。
これ作った人が娯楽大作作ったジェリーブラックカイマーだとは思えません。
それほどの衝撃でした。

1993年10月3日、統合特殊作戦コマンド(JSOC)の実行した作戦であり、ソマリアで行われたもので、第一目標はソマリア民兵の将軍モハメッド・ファッラ・アイディードの二人の副官を捕らえることだった。のちにこの出来事は世界中のメディアによって『モガディシュの戦闘』と名づけられた。(wikiより)


ここからは僕の意見です。
意義がある方はコメントをどうぞ。(って、見てる人居ないかww)
問題は多々あり、これがアメリカ軍のプロパガンダと見える人もいます。
(wikiでは「日本国内では井筒和幸や松本人志らが本作を批判している。特に井筒の怒りは凄まじく、「こういう映画を『良い』と思う人と付き合いたくない」と徹底的に叩いている」←ただ、考え方が狭いような気がしてならないのですが・・・。)
事実映画の中で米軍に不利益であるシーンは削除されてしまったようです。
が、これをみるのに米軍、ソマリア民兵どちらが正しいのかという観点を入れてしまうと、その時点でこの映画はどうしようもない映画に早変わりします。
これをアメリカ軍が良いやつらに見えるように見てしまえばそこでおしまいです。
それは日本軍が第二次中に米国は敵であると、米語を禁止させ外来語を封じ込めたようなことと同じような気がします。
この映画の本質は1993年に起こった米軍独断の軍事作戦でもなく、ソマリア民兵の好戦でもなく、国際問題でもありません。
本質は1993年に起こった戦争という事実です。
これが戦争だ、それが本質だと思うのです。

戦争はどういうものか。
焼夷弾がばらばら振ってきて・・・。
というのは小学生の頃の修学旅行や、実際戦地に行った祖父からも聞かされました。
8月になれば日本の大半のTV局は戦争映画を流します。
その内容はほとんどが広島、長崎の原爆についての特番。
日本人としてその事実を忘れることは許されないことです。
ただ、いまの僕らにしてみれば戦争なんてゲームや漫画、映画の中の出来事でしかない。
原爆が恐ろしい、と知ってはいてもどう恐ろしいのか、何故そうなったのか。
詳しいことを知る人間なんて僅かです(実際僕も詳しくはないです)。

ただ、僕が生まれてから5年後、いまから14年前には実際にあったこと。
2,3年前にもイラクで起こり、中東では内戦は収まらない。
僕らがノンノンとニコニコ見てたり、漫画読んだり、学校行ったりしている間に人は銃弾で倒れ、傷つき、死んでいったという事実があったのだと。

僕はこの映画をプロパガンダだとは思いません。
アメリカ視点であり、アメリカの都合で出来上がっていはいますが戦争です。
戦争を知ることのできる貴重なものだと感じます。
最後の台詞、「何故戦いに行くのか?」という問い。
答えは「仲間を助けるために」。
それは究極的な見方をすればどちら側も同じなのでしょう。

人の生き死にを考えるべきである今日。
この映画を見れることは良いことであると。
そう思います。





さて、今日は終始こういう内容ですいません。
28日未明、愛媛県出身の映像ジャーナリスト長井健司さん(50)が紛争の起こっているミャンマーで射殺されお亡くなりになりました。
今朝のフジを見た方は知っていると思いますが、どうやら至近距離からのものだそうです。
ジャーナリストとして各地の危険な紛争地域を取材し、その事実を報じ続けてきた方がまた一人亡くなってしまいました。



その事実、軽く受け止めないでください。
その事実、受け流さないでください。
いまも人は死んでいます。
いまも人は殺しています。
この世界のどこかで。



長井さんに尊敬の意をこめてご冥福をお祈りいたします。

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ミャンマー:日本人記者死亡(MSNnews)
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