毎週金曜日更新!!更新されてなければ直訴してね!! 編集者情報!!
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庵/雛
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36
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男性
誕生日:
1988/03/25
職業:
週刊イオリビナ!!編集長、兼ライター、兼大学生。
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本、本、本、アニメ、ゲーム、本、本、本。
自己紹介:
お気楽人間日本代表。
好きなキャラはタルト星人。 好きな音楽はロック。 好きな本は小説本で。 嫌いな食べ物はトマト。 只今トマト撲滅キャンペーン実施中。 九州の辺境大学の学生。 いまは休学(半ばサボって)して首都で勉強中。 しかし実態はただのニート。 なるべく時間を有効につかおうとするもゲームに走る。 MGO、FIFA08プレイ中。 時間は腐るほどあるので、HPいじっていきます。 【週刊イオリビナ!!】 このBLOGは「忍者ブログ」の提供でお送りします。 Daily PhotoShops【mini】庵/雛の 写真日記。 UNIQLOCKカンヌ国際広告祭。 世界三大広告賞。 グランプリ獲得作品。 サブスポンサー!!勝手にスポンサー!! 今週の特集!!いろんなジャンルでお届けします!! |
Weekly IORIBINA!!【本】と【アニメ】と【ゲーム】で生きてるライターが贈る週刊の習慣情報ブログ!! ゆっくりしていってね!!PAGE | 182 181 180 179 178 177 176 175 174 173 172 | ADMIN | WRITE 2008.11.21 Fri 22:46:49 これを新聞原稿のネタにするつもりで書いてます。ブログに続く、言葉の考察。
少し前に、「なぜ人はブログを書くのか」ということについて考察しました。 今回はそれにかかわるかどうかが微妙ですが、言葉についての考察を行ってみようかと思います。 今現在、私たちの社会には多くの言葉があふれかえっています。 電車に乗っても、町を歩いていても、家に居ても、一度は必ず言葉を見る機会がある。 逆に、言葉を見ようとしないように普段通りの生活を過ごすのは困難です。 情報伝達の役割を持つ言葉は、人々にとって電化製品以上に必要不可欠なものだと言えるでしょう。 しかし、言葉が増えていく以上、私たちの受け取る情報量は多くなり続けます。 そして私たちはそのすべての言葉を自分の頭で処理していくことは困難になり、そこに必要な言葉と不必要な言葉というものが生まれてくることになります。 では必要な言葉と、不必要な言葉とは何なのか。 「必要な言葉」とは生きていく上では必要になってくる言葉のことを指します。 それらはつまり、新聞や、論文、手紙、メールなど実用的なものに部類します。 対して「不必要な言葉」とは生きていく上で必ずしも読む必要のない言葉のことをさし、それはつまり小説や、詩、歌などの芸術的なものだと言えます。 この二つの分類が絶対とは言いません。 小説を書いたりしている自分には小説というものが意味のないものだとはとても思えませんから。 しかし、その芸術や、心に効く言葉ということを省いて、生きるために必要なもの、を考えてしまえばそれらは不必要な言葉に分類されることになるでしょう。 なぜこの分類が出来上がってしまったのか。 そもそも、言葉というのは文字にして自分の意志や情報を伝え合うためものになります。 つまり、言葉=意思疎通や情報収集をするためのツールであり、それこそが言葉の本質であると考えることができます。 そうすると、「必要な言葉」達は言葉の本質のみを選りすぐったものということができます。 そうなれば「不必要な言葉」はその陰に隠れる、本質以外の使い方をした言葉ということができます。 私たちの社会には今この分類が顕著に表れ始めています。 それが「読書離れ」や「活字離れ」といったものなのかもしれません。 本を読むことがない人が悪いということではありませんが、その傾向こそが言葉に「必要」「不必要」のレッテルをつけてしまった一因とも考えることができます。 「必要な言葉」の多くはその形式が作られていたり、情報が乗せられていたりします。 そのため難解な読み方ではなく情報をただ端的に伝える点では読みやすく、例え読みたくない、と思っていてもそれが必要な情報ならば相手は受け取ります。 また、言葉での意思疎通を行うための手紙やメールは、例え他の人にとって意味のない言葉の羅列や、書き方であっても、その意志疎通を行う人間の間には重要な意味を持ち、意思を持っていることになります。 だからこそ、必要な言葉はその媒体が変われども、なくなることはまずあり得ません。 対して「不必要な言葉」は書き手の想いや、感情で出来上がっているものです。 そこには情報が多少なりともあれど、それを読む際には読み手の好き嫌いが関わってくることになります。 そこが、「不必要」を生んでしまう原因ではないかと、庵は考えます。 情報を伝えるために発明された言葉は、やがてその使用法を工夫され、物語や、詩などの芸術性、人の心に訴えかける表現性を手に入れることができました。 しかしながら、そこに書かれていることが必ずしも必要であるものではないため、それを嫌ってしまう人間も出てきてしまったのです。 小説を読むことが苦手な人は、そもそもそう言った言葉を欲してはいないのかもしれません。 言葉で感情を表すことは手紙に必要であっても、それが書かれた物語を読むことが、果たして生きていくために必ず必要か。 「要る!」と断言できないのが実情だと思います。 「自分にとってはいらないから読まない」 「自分にとっては書く必要がないから書かない」 必要最低限を突き詰めれば、それは情報の言葉になっていくことになります。 「活字離れ」は自分にとって必要のない、価値のない言葉を拒否したからこその結果でしょう。 では、次に、「必要な言葉」が必ずしも「必要であるのか」 結論から言えば、「必要ではない」ということになります。 新聞を読む人が全人類かと言えばそうではなく、手紙を書く人が、メールを書く人が全人類であるということはできません。 今回は手っ取り早い結論で「全人類が必要とする」というおおざっぱすぎる考えを用いていますが、少し考えれば新聞やメール、論文にも不必要な候補はあるのです。 それはなぜ起きるのか? 答えは「興味」の一言に尽きます。 必要、不必要で分けた分類の先には、興味がわくか、わかないかが出現することになるのです。 たとえば。 新聞の間中に含まれている広告。 読む人が果たしてどれほどいるのでしょうか? たとえば。 論文。 実際必要とするのは少数派の人間です。 分かりやすく、二つを挙げましたが、論文はあまりいい例ではありませんでしたね。 ごめんなさい。 ですが広告。 広告は商品や企業の情報を詰め込んだ言葉の集まりです。 しかし、それを果たしてどれだけの人間が読むのだろうか。 分類としては人にとって必要であろう情報が入れられている言葉であるのにもかかわらず、そこに興味が関連してくることで「必要の中の不必要」が発生、分類されてしまいます。 これは「不必要な言葉」にも同様のことが言えます。 不必要な言葉でも、そこに興味が沸けばその人にとっての「不必要の中の必要」に分類されるのです。 それはたとえば本好きや、詩人、俳人などが当てはまります。 言葉も「物」の一つであるとすれば、この分類が生まれることは不思議ではありません。 むしろ当然、必然ともいえるでしょう。 では最後に、この分類から起こる「必要の中の不必要」や「不必要の中の不必要」に分類される言葉達はどうすればいいのか。 広告は、流し眼で読まれることが大半です。 その中には多くの商品の情報が詰め込まれていることが多いのです。 ですが読まれない。 どうすりゃいいのか。 答えは一つ。 それは「聞く言葉」を作ることです。 そして「効く言葉」であることです。 人にとって「興味がある言葉」ではなく「興味を持つ言葉」であることです。 「聞く言葉」とは、耳で聞くようにわかりやすい、情報を受け取る側の人間のための言葉です。 読む人が何を求めているかを考え、読む人のために情報を詰め込み、読みやすく書かれた言葉です。 「効く言葉」は読み手に「面白い」や「興味」を持たせる言葉であることです。 人に「お?」と思わせ、「なんだこれ?」と思わせ、「ふんふん」と読ませてしまう言葉です。 これを書くことは一筋縄ではいかない、とんでもなく難題であります。 一人格の脳みそから、様々な人の興味や関心の方向を考えて書かなければなりません。 しかし、これが死にかけの言葉を救う一つの方法ではないか。 庵はそう考えます。 今回も読みにくい考察でしたがいかがでしたか? 必要なかったですか、そうですか。 ですが余談ながらもう二言述べると。 ネット上の言葉の大半はこの「不必要な言葉」に当てはまることになります。 ここで考えを述べても意味はない、って自分で墓穴掘ってますが。 正直誰がどこでどう蔵総が私としては知ったこっちゃないんです。 どうでもいい。 それは前回ブログについて考えた時の結論である、「個人の欲求の集合体」からもわかるように、そこに個人個人の趣味趣向が含まれているからにほかなりません。(企業を除く) そして多くの場合は感情に乗せられた言葉であることがうなずけると思います。 それを不必要か、必要かを判断するの読み手の判断ですが、あふれかえる言葉の多くは吹きこぼれてしまい、中に残った小数しか読まれていないことも現実であると思います。 もう一つは活字離れの時代に突如としてあらわれた「ケータイ小説」です。 これは、これを利用する人々にとっては「必要な言葉」であり、他の人々には「不必要な言葉」であることが良くわかる例でもあるでしょう。 ネットでは文体が酷く、これは小説ではないとの声が大きいようです。 庵も実際読んですごいなと思いましたが、よくよく考えるとあれは「効く言葉」と「聞く言葉」の一種であるのではないのかと思います。 たとえば、語りかける口調をそのまま使用することは、読み手にとっての「読みやすい言葉」=「聞く言葉」であり、その単純で突飛な内容、おかしな言葉づかいは同じような年代の女性(または男性読者)に向けたための「効く言葉」であるのではないでしょうか。 携帯という現代においては必須アイテムにも近いものの中で読める、ということも「効く言葉」の要素の一部にもなっていることと思います。 そう考えれば、ケータイ小説も読み手にとっては極上の「言葉」なのかもしれません。 この考えはかの有名な「わたし彼女」のあるレヴューを見ていて思った考えであるので、必ずしも庵個人の特別な考えではないことを追記しておきます。 ふう。 ながながと書いたけど、これが新聞の原稿のアイデアとなるのかならないのか。 まだ時間はあるのですが、庵は時間をどうも下手に使っているので。 これからもたまに考えや記事などのためし書きにこのブログを利用します。 その際にはみなさんにとっての「効く言葉」「聞く言葉」であることを目指して。 ひなぜくう・いおり 参考:わたし彼女がなんであんな文体でかかれているのか、その理由が分かっ PR TrackbacksTRACKBACK URL : CommentsComment Form |